2008年4月22日火曜日

ホッチキス

MAXと言えばホッチキスと、言われる程、知名度の高い商品です。半世紀以上にわたり製造され続けています。今も私の事務所では約30年以上前のホッチキスが現役で活躍しています。現在、マックスの10号ホッチキスの国内シェアは約75%にもなるという。

ホッチキス語源
ホッチキスは、英語名をステープラーといいます。この「自動紙綴器」を発明したのは、米国人ベンジャミン・バークリー・ホッチキスで、日本では彼の名前にちなんでホッチキスと呼ぶようになりました。
伊藤喜商店では、明治36年ごろから輸入を始め、「ホッチキス自動紙綴器」という商品名で販売を行っていました。ところが、伊藤喜商店から仕入れ販売をしていた東京・日本橋の梶仁太郎金物店が「ホッチキス」という商標を先に登録していたことがわかり、伊藤喜商店がこれを買い取って、正式に伊藤喜のホッチキスとして商標登録されることとなりました。
伊藤喜商店では、その後国内生産も開始。国産品にはハト印のトレードマークをつけて「ホチキス1号」、輸入品は「ホチキス2号」として販売しました。

マックスホッチキスの歴史
大正3~4年には、アメリカ製のアクメ(1号ホッチキス)が輸入されこのころ針は鉄板をプレスしたムカデ形(アクメ針)でした。大正7年になると伊藤喜商店<ハト印>、堀井謄写堂<コスモス印>が国内で生産されるようになりました。
大正15年にはそれまでの鋳物製とは違い、プレス加工のジョイント(2号)が雨森文永堂から発売。その後1年程度で、ドイツから3号の綴り針が輸入され、昭和3年に3号針を使用するスマート3号が作られました。
昭和10年頃には向野事務器製作所(東京都大田区)の向野光雄社長は2号・3号・9号ホッチキスを設計、製造していました。当時、3号をスマート、2号をジョイント、9号をホルダーと呼んでいたそうです。
昭和21年に山田興業(株)( 現在マックス(株))が3号ホッチキスの生産を開始したことにより、戦後のホッチキスの歴史が始まりました。
マックス(株)は創業時は山田航空工業(株)と称し、零式戦闘機の尾翼部品メーカーとして昭和17年に発足しました。 戦後、新発足にあたり山田興業(株)と社名を改め、『平和産業に徹し、文化に貢献する』を掲げて、向野氏からホッチキスの製造技術を引継ぎ、終戦から半年後の昭和21年には早くも「ヤマコースマート」の生産を開始しました。
まもなく1号・2号・5号・9号などのホッチキスも手掛けるようになり、品揃えが進みました。3号ホッチキスはその後も改良されましたが、クロームメッキデザインは当時のままで、卓上型のスタンダードタイプとして現在もロングセラーを続けています。

(SYC・10の誕生)
「ホッチキス」の名前を一般的にしたのは、なんといっても昭和27年7月に発売した小型ホッチキスSYC・10(シック・10)です。
それまでのホッチキスは紙綴器と呼ばれ、オフィスの部や課で購入する事業所向けの用度品でしたが、SYC・10は小型、軽量で指先の力で綴じることができる画期的な製品でした。
また、価格も200円と低価格であったため、学校、家庭へと急速に普及し、数年の内にホッチキスは一人一台が常識の文房具になりました。
 
(MAX・10の改良)
昭和27年に発売された小型ホッチキスSYC・10は、社名の変更にともない昭和29年には「MAX・10」と名称が変わりました。以降、MAX・10が普及するにしたがい、マックスとホッチキスが同義語になり、文具店には「マックスください。」とホッチキスを買いにくる人が多くなりました。
その後MAX・10、HD-10と名称は変化しましたが、基本性能は変えずに、使い勝手の向上に工夫を重ねてきました。
現在、世界中のオフィスや家庭で愛用されています。
今後も見えない所での製品の改造に期待します。
(マックス株式会社 ホッチキスの歴史引用)
(ウィキペディアより引用)

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